巻次 - 910頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは、弥陀如来、念仏衆生を摂取したまうひかりは、つねにてらしたまいて、すでによく無明の闇を破すといえども、貪欲と瞋恚と、くもきりのごとくして、真実信心の天におおえること、日光のあきらかなるを、くもきりのおおうによりてかくすといえども、そのしたはあきらかなるがごとしといえり。 「獲信見敬大慶喜」というは、法をききてわすれず、おおきによろこぶひとをば、釈尊は「わがよき親友なり」(大経)とのたまえり。 「即横超截五悪趣」というは、一念慶喜の心おこりぬれば、すなわちよこさまに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のきずなをきるというこころなり。 「一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利花」というは、一切の善人も悪人も、如来の本願を聞信すれば、釈尊はこのひとを「広大勝解のひと」(如来会)なりといい、また「分陀利花」(観経)にたとえ、あるいは「上々人」(散善義)なりといい、「希有人」(同)なりとほめたまえり。 「弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」というは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと憍慢のものと悪人とは、真実に信楽したてまつること、かたきがなかにかたきこと、これにすぎたるはなしといえるこころなり。 紙面画像を印刷 前のページ p910 次のページ 初版p751・752へ このページの先頭に戻る