巻次 - 909頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 とちかいましまして、すでにその願成就したまえるすがたは、すなわちいまの本願の名号の体なり。これすなわち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」というは、第十八の真実の信心をうれば、すなわち正定聚に住す。そのうえに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまうがゆえなり。これを平生業成とはもうすなり。されば正定聚というは、不退のくらいなり。これはこの土の益なり。滅度というは涅槃のくらいなり。これはかの土の益なりとしるべし。『和讃』(高僧和讃)にいわく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなわち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といえり。これをもってこころうべし。 「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」というは、釈尊出世の元意は、ただ弥陀の本願をときましまさんがために、世にいでたまえり。五濁悪世界の衆生、一向に弥陀の本願を信じたてまつれといえるこころなり。 「能発一念喜愛心」というは、一念歓喜の信心をもうすなり。 「不断煩悩得涅槃」というは、不思議の願力なるがゆえに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりは、ついに涅槃にいたるべき分にさだめましますものなり。 「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」というは、凡夫も聖人も五逆も謗法も、ひとしく大海に回入すれば、もろもろのみずの、うみにいりて一味なるがごとしといえるこころなり。 紙面画像を印刷 前のページ p909 次のページ 初版p750・751へ このページの先頭に戻る