巻次 - 908頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 ごとく、光明の智慧をもって煩悩のたきぎをやくに、さらに滅せずということなし。三塗黒闇の衆生も光照をこうぶりて解脱をうるは、このひかりの益なり。「清浄光仏」というは、無貪の善根より生ず。かるがゆえにこのひかりをもって衆生の貪欲を治するなり。「歓喜光仏」というは、無瞋の善根より生ず。かるがゆえにこのひかりをもって衆生の瞋恚を滅するなり。「智慧光仏」というは、無痴の善根より生ず。かるがゆえにこのひかりをもって無明の闇を破するなり。「不断光仏」というは、一切のときに、ときとして、てらさずということなし。三世常恒にして照益をなすがゆえなり。「難思光仏」というは、神光、相をはなれてなづくべきところなし。はるかに言語の境界にこえたるがゆえなり。こころをもってはかるべからざれば、「難思光仏」といい、ことばをもってとくべからざれば、「無称光仏」と号す。『無量寿如来会』には、「難思光仏」をば「不可思議光」となづけ、「無称光仏」をば「不可称量光」といえり。「超日月光仏」というは、日月はただ四天下をてらして、かみ上天におよばず、しも地獄にいたらず。仏光はあまねく八方上下をてらして、障碍するところなし。かるがゆえに日月にこえたり。されば、この十二光をはなちて十方微塵世界をてらして衆生を利益したまうなり。 「一切群生蒙光照」というは、あらゆる衆生、宿善あればみな光照の益にあずかりたてまつるといえるこころなり。 「本願名号正定業」というは、第十七の願のこころなり。十方の諸仏に、わが名をほめられん 紙面画像を印刷 前のページ p908 次のページ 初版p749・750へ このページの先頭に戻る