巻次 - 915頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 「三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引」というは、道綽の『安楽集』に三不三信ということを釈したまえり。「一つには信心淳からず、若存若亡する故に。二つには信心一ならず。謂わく、決定無きが故に。三つには信心相続せず。謂わく、余念間たるが故に」といえり。かくのごとくねんごろにおしえたまいて、像法・末法の衆生をおなじくあわれみましましけり。 「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」というは、弥陀の弘誓にもうあいたてまつるによりて、一生悪をつくる機も、本願の不思議によりて安養界にいたりぬれば、すみやかに無上の妙果を証すべきものなり。 「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」というは、浄土門の祖師、そのかずこれおおしといえども、善導にかぎり、ひとり仏証をこうて、あやまりなく仏の正意をあかしたまえり。定善の機、散善の機、五逆の機をも、もらさずあわれみたまいけりというこころなり。 「光明名号顕因縁」というは、弥陀如来の四十八願のなかに、第十二の願は、わがひかりきわなからんとちかいたまえり。これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたねきざすとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず。ひとえに光明にもよおさるるによりてなり。このゆえに光 紙面画像を印刷 前のページ p915 次のページ 初版p756・757へ このページの先頭に戻る