巻次 - 917頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 「極重悪人唯称仏」というは、「極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることをえよ」(往生要集)といえる文のこころなり。 「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」というは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれども、かの摂取の光明のなかにあり。しかれども煩悩まなこをさえて、おがみたてまつらずといえども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身をてらしましますといえるこころなり。 「本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人」というは、日本には念仏の祖師、そのかずこれおおしといえども、法然聖人のごとく、一天にあまねくあおがれたまうひとはなきなり。これすなわち仏教にあきらかなりしゆえなり。これによりてあるいは弥陀の化身といい、また勢至の来現といい、また善導の再誕ともいえり。かかる明師にてましますがゆえに、われら善悪の凡夫人をあわれみたまいて、浄土にすすめいれしめたまいけるものなり。 「真宗教証興片州 選択本願弘悪世」というは、かの聖人、我が朝にはじめて浄土宗をたてたまいて、また『選択集』というふみをつくりましまして、悪世にあまねくひろめたまえり。 「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」というは、生死輪転のいえというは、六道輪回のことなり。このふるさとへかえることは、疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは、信心のあるによりてなり。されば『選択集』にいわく、 紙面画像を印刷 前のページ p917 次のページ 初版p758へ このページの先頭に戻る