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「生死のいえにはうたがいをもって所止とし、涅槃のみやこには信をもって能入とす」といえるは、このこころなり。
 「弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」というは、「弘経大士」というは、天竺・震旦・我が朝の菩薩・祖師達のことなり。かの人師等、未来の極濁悪のわれらをあわれみ、すくいたまわんとて出生したまえり。しかれば念仏の道俗等、あまねくかの三国の高祖の説を信じたてまつれとなり。さればわれらが真実の報土の往生をおしえたまうこと、しかしながらこの祖師等の御恩にあらずということなし。よくよくその恩徳を報謝したてまつるべきものなり。

 右、この『正信偈大意』は、金森の道西、自身才学にそなえんがために、連々そののぞみこれありといえども、予いささかその料簡なきあいだ、かたく斟酌をくわうるところに、しきりに所望のむねさりがたきによりて、文言のいやしきをかえりみず、また義理の次第をもいわず、ただ願主の命にまかせて、ことばをやわらげ、これをしるしあたうべきよし、その所望あるあいだ、かくのごとくこれをしるすところなり。あえて外見あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

于時長禄四歳六月 日

長禄第四暦林鐘之比、草本記之。間々寛正二年四月仲旬第二日、重而令清書与之者也。