巻次 - 918頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 「生死のいえにはうたがいをもって所止とし、涅槃のみやこには信をもって能入とす」といえるは、このこころなり。 「弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」というは、「弘経大士」というは、天竺・震旦・我が朝の菩薩・祖師達のことなり。かの人師等、未来の極濁悪のわれらをあわれみ、すくいたまわんとて出生したまえり。しかれば念仏の道俗等、あまねくかの三国の高祖の説を信じたてまつれとなり。さればわれらが真実の報土の往生をおしえたまうこと、しかしながらこの祖師等の御恩にあらずということなし。よくよくその恩徳を報謝したてまつるべきものなり。 右、この『正信偈大意』は、金森の道西、自身才学にそなえんがために、連々そののぞみこれありといえども、予いささかその料簡なきあいだ、かたく斟酌をくわうるところに、しきりに所望のむねさりがたきによりて、文言のいやしきをかえりみず、また義理の次第をもいわず、ただ願主の命にまかせて、ことばをやわらげ、これをしるしあたうべきよし、その所望あるあいだ、かくのごとくこれをしるすところなり。あえて外見あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。于時長禄四歳六月 日長禄第四暦林鐘之比、草本記之。間々寛正二年四月仲旬第二日、重而令清書与之者也。 紙面画像を印刷 前のページ p918 次のページ 初版p758・759へ このページの先頭に戻る