巻次
第二帖
953頁
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文明六年五月十三日、之を書く。

(一一) 夫れ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおおきにあさましき次第なり。そのゆえは、まず当流には他力の信心をもって凡夫の往生をさきとせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいわく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を弥陀如来のさだめましましたまえることを、わすれぬがすなわち信心のすがたなり」といえり。これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。されば、いかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生をさだめたまえることをしりたりというとも、われらが往生すべき他力の信心のいわれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。またあるひとのことばにいわく、「たとい弥陀に帰命すというとも、善知識なくば、いたずらごとなり。このゆえに、われらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々 これも、うつくしく当流の信心をえざるひとなりときこえたり。そもそも善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり。されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開発して、善知識にあわずは、往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、