巻次
第二帖
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あなかしこ。

文明六年五月二十日

(一二) 夫れ、人間の五十年をかんがえみるに、四王天といえる天の一日一夜にあいあたれり。またこの四王天の五十年をもって等活地獄の一日一夜とするなり。これによりて、みなひとの、地獄におちて苦をうけんことをば、なにともおもわず、また浄土へまいりて無上の楽をうけんことをも分別せずして、いたずらにあかし、むなしく月日をおくりて、さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいいて門徒を勧化する儀もなし。ただ朝夕は、ひまをねらいて、まくらをともとしてねぶりふせらんこと、まことにもってあさましき次第にあらずや。しずかに思案をめぐらすべきものなり。このゆえに、今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心決定して、真実報土の往生をとげんとおもわんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし。これまた自行化他の道理にかなえりとおもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

時に文明第六、六月中の二日、あまりの炎天のあつさに、これを筆にまかせてかきしるしおわりぬ。

(一三) 夫れ、当流にさだむるところのおきてをよくまもるというは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたを、あらわにひとの目にみえぬようにふるまえるをもって本意とするなり。しかるに、ちかごろは、当流念仏者のなかにおいて、わざとひと目にみえて一流のすがたをあらわして、