巻次 第三帖 970頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 にあいたずねて、真実の信心をとらんとおもうひとすくなし。これまことにあさましき執心なり。すみやかに、この心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに宝のやまにいりて、手をむなしくしてかえらんにことならんものか。このゆえに、その信心の相違したることばにいわく、「それ、弥陀如来は、すでに十劫正覚のはじめより、われらが往生をさだめたまえることを、いまにわすれず、うたがわざるが、すなわち信心なり」とばかりこころえて、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくば、報土往生すべからず。さればそばさまなるわろきこころえなり。これによりて、当流安心のそのすがたをあらわさば、すなわち南無阿弥陀仏の体をよくこころうるをもって、他力信心をえたるとはいうなり。されば南無阿弥陀仏の六字を、善導釈していわく、「「南無」というは帰命、またこれ発願回向の義なり」(玄義分)といえり。そのこころいかんぞなれば、阿弥陀如来の因中において、われら凡夫の往生の行をさだめたまうとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆえに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の、凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたえんがために回向成就したまいて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたえましますなり。かるがゆえに、凡夫のかたよりなさぬ回向なるがゆえに、これをもって如来の回向をば、行者のかたよりは不回向とはもうすなり。このいわれあるがゆえに、南無の二字は帰命のこころなり。また発願回向のこころなり。このいわれなるがゆえに、南無と帰命する衆生を、かならず摂取してすてたまわざるがゆえに、南無阿弥陀仏とはもう 紙面画像を印刷 前のページ p970 次のページ 初版p805へ このページの先頭に戻る