巻次
第三帖
974頁
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ちに、一切の諸仏も菩薩も、みなことごとくこもれるがゆえに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も、弥陀一体に帰せずということなきいわれなればなりとしるべし。
 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおおきなるあやまりなり。そのいわれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も、念仏者をば、あながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとが、のがれがたきこと、道理必然せり。
 四つには、守護・地頭においては、かぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもって本とすべし。
 五つには、国の仏法の次第、当流の正義にあらざるあいだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今已後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがえして、善心におもむくべきものなり。
 六つには、当流真実の念仏者というは、開山のさだめおきたまえる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもって、宗の本意とすべし。それ、一流の安心の正義のおもむきというは、なにのようもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたずらものを本とたすけたまえる弥陀願力の強縁なりと、不可思議におもいたてまつりて、一念も疑心なく、おもうこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明をはなちて、その身を摂取したまうなり。かように信心決定したらんひとは、十人は十人なが