巻次
第四帖
989頁
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いだ、報恩講中において、衆中としてさだめおくところの義、ひとつとして違変あるべからず。この衆中において、万一相違せしむる子細これあらば、ながき世、開山聖人の御門徒たるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明十五年十一月 日

(七) 抑も、今月報恩講の事、例年の旧義として、七日の勤行をいたすところ、いまにその退転なし。しかるあいだ、この時節にあいあたりて、諸国門葉のたぐい、報恩謝徳の懇志をはこび、称名念仏の本行をつくす。まことにこれ専修専念決定往生の徳なり。このゆえに諸国参詣のともがらにおいて、一味の安心に住する人まれなるべしとみえたり。そのゆえは、真実に仏法にこころざしはなくして、ただ、人まねばかり、あるいは仁義までの風情ならば、まことにもってなげかしき次第なり。そのいわれいかんというに、未安心のともがらは、不審の次第をも沙汰せざるときは、不信のいたりともおぼえはんべれ。されば、はるばると万里の遠路をしのぎ、又、莫太の苦労をいたして上洛せしむるところ、さらにもってその所詮なし。かなしむべし、かなしむべし。ただし、不宿善の機ならば無用といいつべきものか。
 一 近年は仏法繁昌ともみえたれども、まことにもって坊主分の人にかぎりて、信心のすがた一向無沙汰なりときこえたり。もってのほか、なげかしき次第なり。
 一 すえずえの門下のたぐいは、他力の信心のとおり聴聞のともがらこれおおきところに、坊主