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ちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の、別のことのようにおもえり。これについて、諸国において、当流門人のなかに、おおく祖師のさだめおかるるところの聖教の所判になき、くせ法門を沙汰して法義をみだす条、もってのほかの次第なり。所詮かくのごときのやからにおいては、あいかまえて、この一七か日報恩講のうちにありて、そのあやまりをひるがえして、正義にもとづくべきものなり。
一 仏法を棟梁し、かたのごとく坊主分をもちたらん人の身上において、いささかも相承もせざる、しらぬえせ法門をもって人にかたり、われ物しりとおもわれんためにとて、近代在々所々に繁昌すと云々 これ言語道断の次第なり。
一 京都本願寺御影へ参詣もうす身なりといいて、いかなる人の中ともいわず、大道・大路にても、また、関・渡の船中にてもはばからず、仏法がたのことを人に顕露にかたること、おおきなるあやまりなり。
一 人ありていわく、「我が身はいかなる仏法を信ずる人ぞ」とあいたずぬることありとも、しかと、「当流の念仏者なり」とこたうべからず。ただ、「なに宗ともなき、念仏ばかりはとうときことと存じたるばかりなるものなり」とこたうべし。これすなわち当流聖人のおしえましますところの、仏法者とみえざる人のすがたなるべし。されば、これらのおもむきを、よくよく存知して、外相にそのいろをみせざるをもって、当流の正義とおもうべきものなり。これについて、この両三年のあ
