巻次
第四帖
993頁
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かるべきか。これも仏法にこころざしのうすきによりてのことなれば、これをとどまらざるも道理か。ふかく思案あるべきものなり。
 一 信心決定のひとも、細々に同行に会合のときは、あいたがいに信心の沙汰あらば、これすなわち真宗繁昌の根源なり。
 一 当流の信心決定すという体は、すなわち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していわく、「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行」(玄義分)といえり。南無と、衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏の、その衆生をよくしろしめして、万善万行、恒沙の功徳をさずけたまうなり。このこころすなわち「阿弥陀仏即是其行」というこころなり。このゆえに、南無と帰命する機と、阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とはもうすなり。かるがゆえに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生、仏にならずは、われも正覚ならじとちかいましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
 そもそも、この八か条のおもむき、かくのごとし。しかるあいだ当寺建立は、すでに九か年におよべり。毎年の報恩講中において、面々各々に、随分信心決定のよし、領納ありといえども、