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第四帖
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これをすなわち仏恩報謝の念仏とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。

延徳四年六月 日

(一〇) いまの世にあらん女人は、みなみなこころを一つにして、阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるべし。そのほかには、いずれの法を信ずというとも、後生のたすかるということ、ゆめゆめあるべからずとおもうべし。されば、弥陀をば、なにとようにたのみ、また後生をば、なにとねがうべきぞというに、なにのわずらいもなく、ただ一心に弥陀をたのみ、後生たすけたまえとふかくたのみ申さん人をば、かならず御たすけあらんことは、さらさらつゆほども、うたがいあるべからざるものなり。このうえには、はや、しかと御たすけあるべきことのありがたさよとおもいて、仏恩報謝のために念仏申すべきばかりなり。あなかしこ、あなかしこ。

八十三歳 御判

(一一) 南無阿弥陀仏と申すは、いかなる心にて候うや。然れば、何と弥陀をたのみて報土往生をばとぐべく候うやらん。これを心得べきようは、まず南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも、南無阿弥陀仏の体は、すなわちわれら衆生の、後生たすけたまえとたのみもうすこころなり。すなわちたのむ衆生を、阿弥陀如来の、よくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたえましますなり。これを衆生に回向したまえるといえるは、このこころなり。されば弥陀をたのむ機を、阿弥陀仏のたすけたまう法なるがゆえに、これを機法一体の南無