巻次 第四帖 996頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 阿弥陀仏といえるは、このこころなり。これすなわちわれらが往生のさだまりたる他力の信心なりとは、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。明応六年五月二十五日、之を書き訖りぬ。 八十三歳(一二) 抑も、毎月両度の寄合の由来は、なにのためぞというに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆえなり。しかれば、往古よりいまにいたるまでも、毎月の寄合ということは、いずくにもこれありといえども、さらに信心の沙汰とては、かつてもってこれなし。ことに近年は、いずくにも寄合のときは、ただ酒・飯・茶なんどばかりにて、みなみな退散せり。これは仏法の本意には、しかるべからざる次第なり。いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところに、なにの所詮もなく退散せしむる条、しかるべからずおぼえはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮自今已後においては、不信の面々は、あいたがいに信心の讃嘆あるべきこと肝要なり。 それ、当流の安心のおもむきというは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまえと、ふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまうべきこと、さらにうたがいあるべからず。かくのごとくよくこころえたる人は、まことに百即百生なるべきなり。このうえには、毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば、これこそ真実の信心を具足せしめたる行者ともなづ 紙面画像を印刷 前のページ p996 次のページ 初版p828・829へ このページの先頭に戻る