巻次 第四帖 997頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 くべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。明応七年二月二十五日、之を書く。毎月両度講衆中へ八十四歳(一三) 夫れ、秋さり春さり、すでに当年は明応第七、孟夏仲旬ごろになりぬれば、予が年齢つもりて八十四歳ぞかし。しかるに当年にかぎりて、ことのほか病気におかさるるあいだ、耳目・手足・身体、こころやすからざるあいだ、これしかしながら業病のいたりなり。または往生極楽の先相なりと覚悟せしむるところなり。これによりて法然聖人の御詞にいわく、「浄土をねがう行人は、病患をえて、ひとえにこれをたのしむ」(伝通記糅鈔)とこそ、おおせられたり。しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもっておこらず。あさましき身なり。はずべし、かなしむべきものか。さりながら予が安心の一途、一念発起平生業成の宗旨においては、いま一定のあいだ、仏恩報尽の称名は、行住座臥にわすれざること間断なし。これについて、ここに愚老一身の述懐これあり。そのいわれは、われら居住の在所在所の門下のともがらにおいては、おおよそ心中をみおよぶに、とりつめて信心決定のすがたこれなしとおもいはんべり。おおきになげきおもうところなり。そのゆえは、愚老すでに八旬のよわいすぐるまで存命せしむるしるしには、信心決定の行者繁昌ありてこそ、いのちながきしるしともおもいはんべるべきに、さらにしかしかとも決定 紙面画像を印刷 前のページ p997 次のページ 初版p829・830へ このページの先頭に戻る