巻次
第四帖
998頁
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せしむるすがたこれなしと、みおよべり。そのいわれをいかんというに、そもそも、人間界の老少不定のことをおもうにつけても、いかなるやまいをうけてか死せんや。かかる世のなかの風情なれば、いかにも一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、そののち人間のありさまにまかせて世をすごすべきこと肝要なりと、みなみなこころうべし。このおもむきを心中におもいいれて、一念に弥陀をたのむこころを、ふかくおこすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

明応七年初夏仲旬第一日、八十四歳老衲、之を書く。

弥陀の名を ききうることの あるならば 南無阿弥陀仏と たのめみなひと

(一四) 一流安心の体という事。
 南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していわく、「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故 必得往生」(玄義分)といえり。まず南無という二字は、すなわち帰命というこころなり。帰命というは、衆生の、阿弥陀仏、後生たすけたまえとたのみたてまつるこころなり。また発願回向というは、たのむところの衆生を摂取してすくいたまうこころなり。これすなわちやがて阿弥陀仏の四字のこころなり。さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をば、なにとたのむべきぞというに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまえと弥陀をたのめば、決定、極楽に往生す