巻次
第四帖
999頁
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べきこと、さらにそのうたがいあるべからず。このゆえに、南無の二字は、衆生の、弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字は、たのむ衆生をたすけたまうかたの法なるがゆえに、これすなわち機法一体の南無阿弥陀仏ともうすこころなり。この道理あるがゆえに、われら一切衆生の往生の体は、南無阿弥陀仏ときこえたり。あなかしこ、あなかしこ。

明応七年四月 日 

(一五) 抑も、当国摂州東成の郡、生玉の庄内、大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋、下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年は、はやすでに三年の歳霜をへたりき。これすなわち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。それについて、この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすくすごし、栄花栄耀をこのみ、また、花鳥風月にもこころをよせず、あわれ、無上菩提のためには、信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をももうさんともがらも、出来せしむるようにもあれかしとおもう、一念のこころざしをはこぶばかりなり。また、いささかも世間の人なんども、偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において、執心のこころをやめて退出すべきものなり。これによりて、いよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあいかない、別しては聖人の御本意にたりぬべきものか。それについて、愚老すでに当年は八十四歳