巻次 - 1032頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 そばされて、いろいろ御法嘆そうろう。なかなか、ありがたさ、もうすばかりなく候う。(28)一 明応六年四月十六日、御上洛にて、その日、御開山聖人の御影の正本、あつがみ一枚に、御みずからの御筆にて御座候うとて、上様(蓮如)、御手に御ひろげそうらいて、みなにおがませたまえり。「この正本、まことに、宿善なくては、拝見もうさぬことなり」とおおせそうろう。(29)一 のたまわく、「「諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまう」(高僧和讃)というは、諸仏の、弥陀に帰して、衆生をたすけらるることよ」とおおせそうろう。(30)一 「一念の信心をえてのちの相続というは、さらに別にあらず、はじめ発起するところの安心に相続せられて、とうとくなる一念のこころのとおるを、「憶念の心つねに」とも、「仏恩報謝」ともいうなり。いよいよ、帰命の一念、発起すること肝要なり」とおおせそうろうなり。(31)一 のたまわく、「朝夕、『正信偈』・『和讃』にて念仏もうすは、往生のたねになるべきか、たねにはなるまじきか」と、おのおの坊主に御たずねあり。みなもうされけるは、「往生のたねになるべし」ともうしたるひともあり、「往生のたねにはなるまじき」というひともありけるとき、仰せに、「いずれもわろし。『正信偈』・『和讃』は、衆生の、弥陀如来を一念にたのみまいらせて、後生たすかりもうせ、とのことわりを、あそばされたり。よくききわけて信心をとりて、ありがたやありがたやと、聖人の御前にて、よろこぶことなり」と、くれぐれ仰せそうろうなり。 紙面画像を印刷 前のページ p1032 次のページ 初版p860・861へ このページの先頭に戻る