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そばされて、いろいろ御法嘆そうろう。なかなか、ありがたさ、もうすばかりなく候う。
(28)一 明応六年四月十六日、御上洛にて、その日、御開山聖人の御影の正本、あつがみ一枚に、御みずからの御筆にて御座候うとて、上様(蓮如)、御手に御ひろげそうらいて、みなにおがませたまえり。「この正本、まことに、宿善なくては、拝見もうさぬことなり」とおおせそうろう。
(29)一 のたまわく、「「諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまう」(高僧和讃)というは、諸仏の、弥陀に帰して、衆生をたすけらるることよ」とおおせそうろう。
(30)一 「一念の信心をえてのちの相続というは、さらに別にあらず、はじめ発起するところの安心に相続せられて、とうとくなる一念のこころのとおるを、「憶念の心つねに」とも、「仏恩報謝」ともいうなり。いよいよ、帰命の一念、発起すること肝要なり」とおおせそうろうなり。
(31)一 のたまわく、「朝夕、『正信偈』・『和讃』にて念仏もうすは、往生のたねになるべきか、たねにはなるまじきか」と、おのおの坊主に御たずねあり。みなもうされけるは、「往生のたねになるべし」ともうしたるひともあり、「往生のたねにはなるまじき」というひともありけるとき、仰せに、「いずれもわろし。『正信偈』・『和讃』は、衆生の、弥陀如来を一念にたのみまいらせて、後生たすかりもうせ、とのことわりを、あそばされたり。よくききわけて信心をとりて、ありがたやありがたやと、聖人の御前にて、よろこぶことなり」と、くれぐれ仰せそうろうなり。