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る、おのおの」と仰せられ候う。信心の体、名号にて候う仰せ、今思い合わせ候うとの義に候う。
(73)一 蓮如上人、仰せられ候う。「堺の日向屋は、三十万貫持ちたれども、死にたるが仏にはなり候うまじ。大和の了妙は、帷一つをもきかね候えども、此の度、仏になるべきよ」と仰せられそうろう由に候う。
(74)一 蓮如上人へ、久宝寺の法性、申され候う。「一念に、後生御たすけ候えと、弥陀たのみ奉り候うばかりにて、往生一定と存じ候う。かようにて御入り候うか」と申され候えば、或人、わきより、「それはいつもの事にて候う。前のこと、不審なることなど、申され候わで」と申され候えば、蓮如上人、仰せられ候う。「それぞとよ。わろきとは、めずらしき事を聞きたくおもい、しりたく思うなり。信のうえにては、いくたびも、心中のおもむき、かように申さるべきことなる」よし、仰せられ候う。
(75)一 蓮如上人、仰せられ候う。「一向に不信の由、申さるる人は、よく候う。ことばにては安心のとおり申し候いて、口には同じごとくにて、まぎれて、空しくなるべきことを悲しみ覚え候う」由、仰せられ候うなり。
(76)一 聖人の御一流は、阿弥陀如来の御掟なり。されば、『御文』には、「阿弥陀如来の仰せられけるようは」とあそばされ候う。