巻次 - 1041頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 る、おのおの」と仰せられ候う。信心の体、名号にて候う仰せ、今思い合わせ候うとの義に候う。(73)一 蓮如上人、仰せられ候う。「堺の日向屋は、三十万貫持ちたれども、死にたるが仏にはなり候うまじ。大和の了妙は、帷一つをもきかね候えども、此の度、仏になるべきよ」と仰せられそうろう由に候う。(74)一 蓮如上人へ、久宝寺の法性、申され候う。「一念に、後生御たすけ候えと、弥陀たのみ奉り候うばかりにて、往生一定と存じ候う。かようにて御入り候うか」と申され候えば、或人、わきより、「それはいつもの事にて候う。前のこと、不審なることなど、申され候わで」と申され候えば、蓮如上人、仰せられ候う。「それぞとよ。わろきとは、めずらしき事を聞きたくおもい、しりたく思うなり。信のうえにては、いくたびも、心中のおもむき、かように申さるべきことなる」よし、仰せられ候う。(75)一 蓮如上人、仰せられ候う。「一向に不信の由、申さるる人は、よく候う。ことばにては安心のとおり申し候いて、口には同じごとくにて、まぎれて、空しくなるべきことを悲しみ覚え候う」由、仰せられ候うなり。(76)一 聖人の御一流は、阿弥陀如来の御掟なり。されば、『御文』には、「阿弥陀如来の仰せられけるようは」とあそばされ候う。 紙面画像を印刷 前のページ p1041 次のページ 初版p868・869へ このページの先頭に戻る