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(91)一 前々住上人、仰せられ候う。「他力信心、他力信心とみれば、あやまりなき」よし、仰せられ候う。
(92)一 わればかりと思い、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば、仏の御慈悲をうけとり申す上は、わればかりと思うことは、あるまじく候う。触光柔軟の願候う時は、心もやわらぐべきことなり。されば、縁覚は、独覚のさとりなるが故に、仏にならざるなり。
(93)一 一句一言も申す者は、われと思いて物を申すなり。信のうえは、われはわろしと思い、又、報謝と思い、ありがたさのあまりを、人にも申すことなるべし。
(94)一 「信もなくて、人に、「信をとられよ、とられよ」と申すは、わが物もたずして、人に物をとらすべきという心なり。人、承引あるべからず」と、前住上人(実如)、順誓申されしとて仰せられ候いき。「自信教人信」(往生礼讃)と候う時は、まずわが信心決定して、人にも教えて、仏恩になるとのことに候う。自心の安心決定して教うるは、則ち「大悲伝普化」(同)の道理なる由、同じく仰せられ候う。
(95)一 蓮如上人、仰せられ候う。「聖教よみの聖教よまずあり。聖教よまずの聖教よみあり。一文字もしらぬとも、人に聖教をよませ、聴聞させて、信をとらするは、聖教よまずの聖教よみなり。聖教をばよめども、真実によみもせず、法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなり」と仰せられ候う。