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んずる」と思う人なし。されば、「極楽はたのしむ」と聞きて、「参らん」と願いのぞむ人は、仏にならず。弥陀をたのむ人は、仏になる」と仰せられ候う。
(124)一 「『御文』は如来の直説なり」と存ずべきの由に候う。「形をみれば法然、詞を聞けば弥陀の直説」といえり。
(125)一 蓮如上人、御病中に、慶聞に、「何ぞ物をよめ」と仰せられ候う時、「『御文』をよみ申すべきか」と申され候う。「さらば、よみ申せ」と仰せられ候う。三通二度ずつ六返、よませられて、仰せられ候う。「わがつくりたる物なれども、殊勝なるよ」と仰せられ、談ぜられ候う。
(126)一 順誓、申されしと云々 「常には、わが前にてはいわずして、かげに後言いうとて、腹立することなり。われは、さようには存ぜず候う。わが前にて申しにくくは、かげにてなりとも、わがうしろ事を申されよ。聞きて心中をなおすべき」よし、申され候う。
(127)一 前々住上人、仰せられ候う。「仏法のためと思し召し候えば、なにたる御辛労をも御辛労とは思し召されぬ」由、仰せられ候う。御心まめにて、何事も御沙汰候う由なり。
(128)一 「法には、あらめなるがわろし。世間には微細なるといえども、仏法には微細に心をもち、こまかに心をはこぶべき」よし、仰せられ候う。
(129)一 とおきはちかき道理、ちかきは遠き道理なり。「燈台本くらし」とて、仏法を、不断、聴聞申す身は、御用をあいみて、いつものことと思い、法義におろそかなり。遠く候う人は、仏法を