巻次 - 1052頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 ききたく、大切にもとむる心あるなり。仏法は、大切にもとむるより、きく者なり。(130)一 ひとつことを聞きて、いつも、めずらしく、初めたる様に、信のうえには有るべきなり。ただ珍しき事を聴き度く思うなり。一つ事を幾度聴聞申すとも、めずらしく、はじめたるようにあるべきなり。(131)一 道宗は、「ただ、一つ御詞を、いつも聴聞申すが、初めたるように、有り難き」由、申され候う。(132)一 「念仏申すも、人の、名聞げにおもわんと思いてたしなむが、大儀なる」由、或人、申され候う。つね式の心中にかわり候う事。(133)一 同行・同侶の目をはじて、冥慮をおそれず、ただ冥見をおそろしく存ずべきことなり。(134)一 たとい正義たりとも、しげからんことをば、停止すべき由候う。まして、世間の儀、停止候わぬこと、しかるべからず。弥いよ増長すべきは、信心にて候う由に候う。(135)一 蓮如上人、仰せられ候う。「仏法には、まいらせ心わろし。是れをして御心に叶わんと思う心なり。仏法のうえは、何事も報謝と存ずべきなり」と云々(136)一 人の身には、眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて、善心を奪う。これは諸行のことなり。念仏はしからず。仏智の心をうるゆえに、貪・瞋・痴の煩悩をば、仏の方より、刹那にけしたまうなり。故に、「貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(散善義)といえり。『正信偈』には、「譬 紙面画像を印刷 前のページ p1052 次のページ 初版p878・879へ このページの先頭に戻る