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(158)一 前々住上人(蓮如)へ、南殿にて、存覚御作分の聖教、ちと不審なる所の候うを、「いかが」とて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候えば、仰せられ候う。「名人のせられ候う物をば、そのままにて置くことなり。これが明誉なり」と仰せられ候うなり。
(159)一 前々住上人へ、ある人、申され候う。開山の御時のこと申され候う。「これは、如何ようの子細にて候う」と申されければ、仰せられ候う。「われもしらぬことなり。何事も何事も、しらぬことをも、開山のめされ候うように、御沙汰候う」と仰せられ候う。
(160)一 「総別、人にはおとるまじきと思う心あり。此の心にて、世間には、物もしならうなり。仏法には、無我にて候う上は、人にまけて信をとるべきなり。理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と仰せられ候う。
(161)一 一心とは、弥陀をたのめば、如来の仏心と一つになしたまうが故に、一心というなり。
(162)一 或人、申され候うと云々 「われは、井の水をのむも、仏法の御用なれば、水の一口も、如来・上人の御用と存じ候う」由、申され候う云々
(163)一 蓮如上人、御病中に仰せられ候う。「御自身、何事も思し召し立ち候うことの、成り行くほどのことはあれども、ならずということなし。人の信なきことばかり、かなしく御なげきは思し召す」の由、仰せられ候う由に候う。
(164)一 同じく仰せに、「何事をも思し召すままに御沙汰あり。聖人の御一流をも御再興候いて、本