巻次 - 1060頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 の歌を御引きありて、折々仰せられ候う。「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」と仰せられしと云々(176)一 「心中をあらためんとまでは思う人あれども、信をとらんと思う人なきなり」と仰せられ候う。(177)一 蓮如上人、仰せられ候う。「方便をわろしという事は、あるまじきなり。方便を以て真実をあらわす廃立の義、能く能くしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなる」由、仰せられ候うと云々(178)一 『御文』は、これ凡夫往生の鏡なり。『御文』のうえに法門あるべきように思う人あり。大きなるあやまりなりと云々(179)一 「信のうえは、仏恩の称名、退転あるまじきことなり。或いは、心より、とうとくあり難く存ずるをば、仏恩と思い、ただ念仏の申され候うをば、それほどに思わざること、大きなる誤りなり。自ずから念仏の申され候うこそ、仏智の御もよおし、仏恩の称名なれ」と仰せ事に候う。(180)一 蓮如上人、仰せられ候う。「信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、又、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり。他宗には、親のため、又、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。聖人の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。そのうえの称名は、なにともあれ、仏恩になるものなり」と仰せられ候う云々(181)一 或人、云わく、「前々住上人(蓮如)の御時、南殿とやらんにて、人、蜂を殺し候うに、思 紙面画像を印刷 前のページ p1060 次のページ 初版p886・887へ このページの先頭に戻る