巻次
-
1061頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

いよらず、念仏申され候う。その時、「何と思うて念仏をば申したる」と仰せられ候えば、「ただ、かわいやと存じ、ふと申し候う」と申されければ、仰せられ候うは、「信のうえは、何ともあれ、念仏申すは、報謝の義と存ずべし。みな仏恩になる」と仰せられ候う。」
(182)一 南殿にて、前々住上人、のうれんを打ちあげられて御出で候うとて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と仰せられ候いて、「法敬、この心しりたるか」と仰せられ候う。「なにとも存ぜず」と申され候えば、仰せられ候う。「これは、われは御たすけ候う、御うれしや、とうとやと申す心よ」と仰せられ候う云々
(183)一 蓮如上人へ、或人、安心のとおり申され候う。西国の人と云々 安心の一通りを申され候えば、仰せられ候う。「申し候うごとく心中に候わば、それが肝要」と仰せられ候う。
(184)一 同じく仰せられ候う。「当時、ことばにては、安心のとおり、同じように申され候いし。然れば、信治定の人に紛れて、往生をしそんずべきことを、かなしく思し召し候う」由、仰せられ候う。
(185)一 同じく仰せに云わく、「仏法をば、さしよせていえいえ」と仰せられ候う。法敬に対し、仰せられ候う。「信心・安心といえば、愚痴のものは、まだもしらぬなり。信心・安心などいえば、別の様にも思うなり。ただ、凡夫の、仏になることをおしうべし。後生たすけたまえと、弥陀をたのめと云うべし。何たる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。当流には、これよりほかの法