巻次 - 1063頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 (189)一 「よきことをしたるが、わろきことあり。わろき事をしたるが、よき事あり。よき事をしても、われは法義に付きてよき事をしたると思い、われ、と云う事あれば、わろきなり。あしき事をしても、心中をひるがえし、本願に帰するは、わろき事をしたるが、よき道理になる」由、仰せられ候う。しかれば、蓮如上人は、「まいらせ心がわろき」と仰せらるると云々(190)一 前々住上人、仰せられ候う。「思いよらぬ者が、分に過ぎて物を出だし候わば、一子細あるべきと思うべし。わがこころならいに、人にものをいだせばうれしく思うほどに、何ぞ用を云うべき時は、人がさようにするなり」と仰せられ候う。(191)一 「行くさきむかいばかりみて、足もとをみねば、踏みかぶるべきなり。人の上ばかりにて、わがみのうえのことをたしなまずは、一大事たるべき」と仰せられ候う。(192)一 善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと存ずべし。此の凡夫の身が仏になるうえは、さてなるまじきと存ずること、あるべきか。然れば、「「道宗、近江の湖を一人してうめよ」と仰せ候うとも、「畏まりたる」と申すべく候う。仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」と申され候う。(193)一 いたりてかたきは石なり。至りてやわらかなるは水なり。水、よく石をうがつ。「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候う間、信をうべきなり。只、仏法は聴聞にきわまることなり 紙面画像を印刷 前のページ p1063 次のページ 初版p889へ このページの先頭に戻る