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と云々
(194)一 前々住上人(蓮如)、仰せられ候う。「信決定の人をみて、あのごとくならではと思えば、なるぞ」と仰せられ候う。「あのごとくになりてこそと、思いすつること、あさましき事なり。仏法には、身をすててのぞみ求むる心より、信をばうることなり」と云々
(195)一 「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。わがみにしられてわろきことあらば、能く能くわろければこそ、身にしられ候うと思いて、心中を改むべし。ただ、人の云う事をば、よく信用すべし。わがわろき事は、おぼえざるものなる」由、仰せられ候う。
(196)一 世間の物語ある座敷にては、結句、法義のことを云う事もあり。さようの段は、人なみたるべし。心には、油断あるべからず。あるいは講演か、又は仏法の讃嘆など云う時、一向に物をいわざること、大きなる違いなり。仏法讃嘆とあらん時は、いかにも心中をのこさず、あいたがいに、信・不信の義、談合申すべきことなりと云々
(197)一 金森の善従に、或人、申され候う。「此の間、さこそ徒然に御入り候いつらん」と申しければ、善、申され候う。「我が身は、八十にあまるまで、徒然と云うことをしらず。その故は、弥陀の御恩の有り難きほどを存じ、和讃・聖教等を拝見申し候えば、心面白くも、又、とうときこと充満するゆえに、徒然なることも、更になく候う」と申され候う由に候う。