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(209)一 蓮如上人、仰せられ候う。「弥陀の光明は、たとえば、ぬれたる物をほすに、うえよりひて、下までひるごとくなる事なり。是れは、日の力なり。決定の心おこるは、これ則ち他力の御所作なり。罪障は、悉く弥陀の御けしあることなる」よし、仰せられ候うと云々
(210)一 信治定の人は、誰によらず、まずみれば、すなわち、とうとくなり候う。是れ、その人のとうときにあらず。仏智をえらるるがゆえなれば、いよいよ仏智のありがたきほどを存ずべきことなりと云々
(211)一 蓮如上人、御病中の時、仰せられ候う。「御自身、何事も思しめしのこさるること、なし。思し召すことの、ならぬことは、なきなり。それにつきて、御往生あるとも、御身は思し召しのこさるる事なし。但、御兄弟中、そのほか、誰にも、信のなきを、かなしく思し召し候う。世間には、よみじのさわりということあり。我においては、往生すとも、それなし。ただ、信のなき事、これを歎き思し召し候う」由、仰せられ候いき。
(212)一 蓮如上人、あるいは、人に御酒をも下され、物をも下されて、かようの事、ありがたく存じ候いて、近づけさせられ候いて、仏法を御きかせ候う。されば、かように物を下され候う事も、信をとらせらるべきためと思し召せば、報謝と思し召し候う由、仰せられ候うと云々
(213)一 同じく仰せに云わく、「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うこと