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(233)一 物にあくことはあれども、仏に成ることと、弥陀の御恩を喜び、あきたる事はなし。焼くとも失せもせぬ重宝は、南無阿弥陀仏なり。然れば、弥陀の広大の御慈悲、殊勝なり。信ある人をみるさえ、とうとし。能く能くの御慈悲なりと云々
(234)一 信決定の人は、仏法の方へは、身をかろくもつべし。仏法の御恩をば、おもくうやまうべしと云々
(235)一 蓮如上人、仰せられ候う。「「宿善めでたし」と云うは、わろし。御一流には、「宿善有り難し」と申すが、よく候う」由、仰せられ候う。
(236)一 他宗には、法にあいたるを宿縁という。当流には、信をとることを宿善と云う。信心をうること、肝要なり。されば、この御おしえには、群機をもらさぬゆえに、弥陀の教えをば、弘教とも云うなり。
(237)一 法門を申すには、当流の心は、信心の一儀を申し立てられたる、肝要なりと云々
(238)一 前々住上人(蓮如)、仰せられ候う。「仏法者は、法の威力にてなるなり。威力でなくは、なるべからず」と仰せられ候う。「されば、仏法をば、学匠・物しりは云いたてず。ただ一文不知の身も、信ある人は、仏智を加えらるる故に、仏力にて候う間、人が信をとるなり。此の故に、聖教よみとて、しかも、我はと思わん人の、仏法を云いたてたることなし」と仰せられ候う事に候う。ただ、なにしらねども、信心定得の人は、仏よりいわせらるる間、人が信をとるとの仰せに候う云々