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非実の理に達するなり。いま十念といえるも、なにのゆえか、十返の名号とこころえん」と。
 このうたがいを釈せば、『観無量寿経』の下品下生の人の相をとくにいわく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わずかに十返の名号をとなえて、すなわち浄土にうまる」といえり。これさらにしずかに観じ、ふかく念ずるにあらず。ただくちに名号を称するなり。「汝若不能念」といえり。これふかくおもわざるむねをあらわすなり。「応称無量寿仏」ととけり。ただあさく仏号をとなうべしと、すすむるなり。「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪」といえり。十念といえるは、ただ称名の十返なり。本願の文、これになずらえてしりぬべし。善導和尚は、ふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまうに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(往生礼讃)といえり。十声といえるは口称の義をあらわさんとなり。
 一 つぎにまた、人のいわく、「臨終の念仏は功徳はなはだふかし。十念に五逆を滅するは、臨終の念仏のちからなり。尋常の念仏は、このちから、ありがたし」といえり。
 これを案ずるに、臨終の念仏は、功徳ことにすぐれたり。ただし、そのこころをうべし。もし、人、いのちおわらんとするときは、百苦みにあつまり、正念みだれやすし。かのとき仏を念ぜんこと、なにのゆえか、すぐれたる功徳あるべきや。これをおもうに、やまいおもく、いのちせまりて、