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て、医師・陰陽師を信ずるがごとし。もしこのこころならば、最後の刹那にいたらずとも、信心決定しなば、一称一念の功徳、みな臨終の念仏にひとしかるべし。
 二 またつぎに、よの中の人のいわく、「たとい弥陀の願力をたのみて極楽に往生せんとおもえども、先世の罪業しりがたし。いかでかたやすくうまるべきや。業障にしなじなあり。順後業というは、かならずその業をつくりたる生ならねども、後後生にも果報をひくなり。されば、今生に人界の生をうけたりというとも、悪道の業をみにそなえたらんことをしらず。かの業がつよくして悪趣の生をひかば、浄土にうまるること、かたからんか」と。
 この義、まことにしかるべしというとも、疑網たちがたくして、みずから妄見をおこすなり。おおよそ、業ははかりのごとし、おもきものまずひく。もしわがみにそなえたらん悪趣の業、ちからつよくは、人界の生をうけずして、まず悪道におつべきなり。すでに人界の生をうけたるにてしりぬ、たとい悪趣の業をみにそなえたりとも、その業は人界の生をうけし五戒よりは、ちからよわしということを。もししからば、五戒をだにも、なおさえず、いわんや十念の功徳をや。五戒は有漏の業なり、念仏は無漏の功徳なり。五戒は仏の願のたすけなし、念仏は弥陀の本願のみちびくところなり。念仏の功徳はなおし十善にもすぐれ、すべて三界の一切の善根にもまされり。いわんや五戒の少善をや。五戒をだにも、さえざる悪業なり。往生のさわりとなることあるべからず。
 三 つぎにまた、人のいわく、「五逆の罪人、十念によりて往生すというは、宿善によるなり。