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意弘深なれば教門をして暁り難し。三賢・十聖、測りて闚う所に弗ず。況んや我、信外の軽毛なり。敢えて旨趣を知らんや。仰いで惟みれば、釈迦は此の方より発遣し、弥陀は即ち彼の国より来迎す。彼に喚ばい、此に遣わす。豈に去かざるべけんや。唯、懃に法に奉えて、畢命を期として、此の穢身を捨てて即ち彼の法性の常楽を証すべし」と。
 又云わく(定善義)、「西方寂静無為の楽には、畢竟逍遙して有無を離れたり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なること無し。或いは神通を現じて法を説き、或いは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随いて出ず。群生見る者、罪、皆除こると。
 又賛じて云わく、帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫より来、六道に流転して尽く皆逕たり。到る処に余の楽無し。唯、愁歎〔或る本、「生死」の字なり。〕の声を聞く。此の生平を畢えて後、彼の涅槃の城に入らん」と。已上

 夫れ真宗の教・行・信・証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。故に、若しは因、若しは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえる所に非ざること有ること無し。因浄なるが故に果亦浄なり。知るべしとなり。
 二に「還相の回向」と言うは、則ち是れ利他教化

漢文

夫案真宗教行信証者、如来大悲回向之利益。故若因若果、無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。因浄故果亦浄也。応知。
二言還相回向者、則是利他教化地益也。