巻次 真仏土 375頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 漢文 画像情報 画像情報 本文 亦『経』(涅槃経)には「衆生、未来に清浄の身を具足して荘厳して仏性を見ることを得」と言えり。 『起信論』(念仏三昧宝王論)に曰わく、「若し説くと雖も能説の有りて説くべきも無く、亦能念の念ずべきも無しと知るを、名づけて「随順」とす。若し念を離るるを名づけて「得入」とす。得入は真如三昧なり。いかに況んや、無念の位は妙覚に在り。蓋し以て了心は初生の相なり。而も初相を知ると言うは、謂わゆる、無念は菩薩十地の知る所に非ず。而るに今の人、尚未だ十信に階わず。即ち馬鳴大士に依らざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る」とのたまえり。略抄 夫れ報を案ずれば、如来の願海に由りて果成の土を酬報せり。故に「報」と曰うなり。 然るに願海に就いて、真有り、仮有り。是を以て復た仏土に就いて、真有り、仮有り。選択本願の正因に由りて真仏土を成就せり。 「真仏」と言うは、『大経』には「無辺光仏・無碍光 漢文 亦『経』言「衆生未来具足荘厳清浄之身而得見仏性。」夫案報者由如来願海酬報果成土。故曰報也。然就願海、有真、有仮。是以復就仏土、有真有仮。由選択本願之正因、成就真仏土。言真仏者、『大経』言「無辺光仏・無碍 紙面画像を印刷 前のページ p375 次のページ 初版p322・323へ このページの先頭に戻る