巻次 化末 467頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 り。形を大覚の境に稟けて、未だ大覚を閑わず。即ち仏陀の訳名なり。故に荘周公、且た大覚有れば、而後に其の大夢を知るなり。『郭註』に云わく、「覚は聖人なり。」言うこころは、患、懐に在るは皆夢なり。『註』に云わく、「夫子、子淤と未だ言うことを忘れて神解すること能わず。故に大覚に非ざるなり。」君子の曰わく、「孔丘の談、茲に亦尽きぬ。」涅槃寂照、識として識るべからず、智をして智るべからず。則ち言語断じて心行滅す。故に言を忘るるなり。法身は乃ち三点・四徳の成ずる所、粛然として無累なり。故に「解脱」と称す。此れ其の神解として患息するなり。夫子、聖なりと雖も、遙かに以て、功を仏に推れり。何んとなれば、劉向が『古旧二録』を案ずるに云わく、「仏流、中夏を経て、一百五十年の後、老子、方に『五千文』を説けり。」然るに、周と老と、並びに仏経の所説を見る。言教往往たり。験えつべし。」乃至 『正法念経』に云わく、「人、戒を持たざれば、諸天減少し、阿修羅盛りなり。善龍、力無し。悪龍、力有り。悪龍、力有れば、則ち霜雹を降して、非時の暴風疾雨あり。五穀、登らず、 紙面画像を印刷 前のページ p467 次のページ 初版p394へ このページの先頭に戻る