巻次 末 648頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 いうは、「真言」は、密教なり、「止観」は、法華なり。「獮猴情難学」というは、この世の人のこころを、さるのこころにたとえたるなり。さるのこころのごとくさだまらずとなり。このゆえに真言・法華の行は修しがたく行じがたしとなり。「三論法相之教 牛羊眼易迷」というは、この世の仏法者のまなこを、うし・ひつじのまなこにたとえて、三論・法相宗等の聖道自力の教にはまどうべしとのたまえるなり。「然至我宗者」というは、聖覚和尚ののたまわく、「わが浄土宗は、弥陀の本願の実報土の正因として、乃至十声・一声、称念すれば、無上菩提にいたる」とおしえたまう。「善導和尚の御おしえには、三心を具すれば、かならず安楽にうまるとのたまえるなり」と、聖覚和尚ののたまえるなり。「雖非利智精進」というは、智慧もなく、精進のみにもあらず、鈍根懈怠のものも、専修専念の信心をえつれば往生すとこころうべしとなり。「然我大師聖人」というは、聖覚和尚は、聖人を、わが大師聖人とあおぎたのみたまう御ことばなり。「為釈尊之使者 弘念仏之一門」というは、源空聖人は釈迦如来の御つかいとして念仏の一門をひろめたまうとしるべしとなり。「為善導之再誕 勧称名之一行」というは、聖人は善導和尚の御身として称名の一行をすすめたまうなりとしるべしとなり。「専修専念之行 自此漸弘 無間無余之勤」というは、一向専修ともうすことは、これよりひろまるとしるべしとなり。「然則破戒罪根之輩 加肩入往生之道」というは、「然則」は、しからしめて、この浄土のならいにて、破戒・無戒の人、罪業ふかきもの、みな往生すとしるべしとなり。「下智浅才之類 振臂赴浄土之門」というは、無智無 紙面画像を印刷 前のページ p648 次のページ 初版p529・530へ このページの先頭に戻る