巻次
-
717頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

へだつるほどなり。かれは漸頓のなかの頓、これは頓のなかの頓なり。滅度というは妙覚なり。曇鸞の『註』(論註)にいわく、「樹あり、好堅樹という。この木、地のそこに百年わだかまりいて、おうるとき、一日に百丈おい候う」なるぞ。この木、地のそこに百年候うは、われらが娑婆世界に候いて、正定聚のくらいに住する分なり。一日に百丈おい候うなるは、滅度にいたる分なり。これにたとえて候うなり。これは他力のようなり。松の生長するは、としごとに寸をすぎず。これはおそし。自力修行のようなり。また、「如来とひとし」(華厳経)というは、煩悩成就の凡夫、仏の心光にてらされまいらせて、信心歓喜す。信心歓喜するゆえに、正定聚のかずに住す。信心というは、智なり。この智は他力の光明に摂取せられまいらせぬるゆえに、うるところの智なり。仏の光明も智なり。かるがゆえに、おなじというなり。おなじというは、信心をひとしというなり。歓喜地というは、信心を歓喜するなり。わが信心を歓喜するゆえに、おなじというなり。くわしく御自筆にしるされて候うを、かきうつしてまいらせ候う。
 また、南無阿弥陀仏ともうし、また無碍光如来ととなえ候う御不審も、くわしく自筆に、御消息のそばにあそばして候うなり。かるがゆえにそれよりの御ふみをまいらせ候う。あるいは阿弥陀といい、あるいは無碍光ともうし、御名ことなりといえども、心は一なり。阿弥陀というは、