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候う。恐々謹言。

二月十二日     浄信

(二)の㋺(宗祖返書)

 如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申すは、摂取不捨の利益にあずかるゆえに、不退の位にさだまると御こころえ候うべし。真実信心さだまると申すも、金剛信心のさだまると申すも、摂取不捨のゆえに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを、不退のくらいとも、正定聚のくらいにいるとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころのさだまるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまうなり。このゆえに、まことの信心の人をば、「諸仏とひとし」(華厳経)と申すなり。又、補処の弥勒とおなじとも申すなり。このよにて、真実信心の人をまぼらせ給えばこそ、『阿弥陀経』には、「十方恒沙の諸仏護念す」とは申す事にて候え。安楽浄土へ往生してのちはまもりたまうと申すことにては候わず、娑婆世界にいたるほど護念すと申す事なり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来の、ほめたまえば、仏とひとしとは申す事なり。
 又、他力と申すことは、「義なきを義とす」と申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからう事を義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆえに、仏と仏との御はからいなり。凡夫のはからいにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからうべき人は候わ