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としごろふかくたのみまいらせてそうらいけること、かえすがえすあさましゅうそうろう。
 そのゆえは、往生の信心ともうすことは、一念もうたがうことのそうらわぬをこそ、往生一定とはおもいてそうらえ。光明寺の和尚(善導)の、信の様をおしえさせたまいそうろうには、「まことの信をさだめられてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のおしえ、弥陀の本願はひがごとなりとおおせらるとも、一念もうたがいあるべからず」(散善義)とこそ、うけたまわりてそうらえば、その様をこそ、としごろもうしてそうろうに、慈信ほどのもののもうすことに、常陸・下野の念仏者の、みな御こころどものうかれて、はては、さしもたしかなる証文を、ちからをつくしてかずあまたかきてまいらせてそうらえば、それをみなすておうておわしましそうろうときこえそうらえば、ともかくももうすにおよばずそうろう。
 まず、慈信がもうしそうろう法文の様、名目をもきかず。いわんや、ならいたることもそうらわねば、慈信にひそかにおしうべき様もそうらわず。また、よるもひるも、慈信一人に、人にはかくして法文おしえたることそうらわず。もしこのこと、慈信にもうしながら、そらごとをももうしかくして、人にもしらせずしておしえたることそうらわば、三宝を本として、三界の諸天善神、四海の龍神八部、閻魔王界の神祇冥道の罰を、親鸞が身にことごとくかぶりそうろうべし。自今已後は、慈信におきては、子の儀、おもいきりてそうろうなり。世間のことにも、不可思議のそらごと、もうすかぎりなきことどもを、もうしひろめてそうらえば、出世のみにあらず、世間のことにおきて