巻次
-
736頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

ばにおさまるなり。この善は、他力の中の自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、胎生・辺地・懈慢界までも、うまるべからず。このゆえに、第十九の誓願に、もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがう人の臨終には、われ現じてむかえんとちかいたまえり。臨終をまつということと、来迎往生をたのむということは、この定心・散心の行者のいうことなり。
 選択本願は、有念にあらず、無念にあらず。有念すなわち色形をおもうにつきていうことなり。無念というは、形をこころにかけず、色をもこころにおもわずして、念もなきをいうなり。これみな聖道のおしえなり。聖道というは、すでに仏になりたまえる人、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗というは、このよにひろまる禅宗これなり。また、法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教というはすなわち、すでに仏になりたまえる仏・菩薩の、かりにさまざまのかたちをあらわしてすすめたまうがゆえに、権というなり。浄土宗にまた、有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。浄土の無念は、聖道の無念にはにず。この聖道の無念の中に、また有念あり。よくよく、とうべし。
 浄土宗の中に、真あり、仮あり。真というは、選択本願なり。仮というは、定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり。定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門の中にまた大小権実の教あり。釈迦如来の、御善知識者、一百一十人なり。『華厳経』に