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へ、五乗ひとしくいることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとい読誦大乗・解第一義の善機たりというとも、おのれが生得の善ばかりをもって、その土に往生すること、かなうべからず。また、悪業はもとより、もろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとして、その土へのぞむべきにあらず。しかれば、機にうまれつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず、失ともならざる条、勿論なり。さればこの善悪の機のうえにたもつところの、弥陀の仏智をつのりとせずよりほかは、凡夫、いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずとはいえ。」ここをもって、光明寺の大師(善導)、「言弘願者如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏大願業力 為増上縁也」(玄義分)とのたまえり。文のこころは、「弘願というは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫のうまるることをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力にのりて、増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ、悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ、善にうとし。ただ、善悪のふたつをば、過去の因にまかせ、往生の大益をば、如来の他力にまかせて、かつて、機のよきあしきに目をかけて、往生の得否をさだむべからずとなり。
 これによりて、あるときのおおせにのたまわく、「なんだち、念仏するより、なお往生にたやすきみちあり。これをさずくべし」と。「人を千人殺害したらば、やすく往生すべし。おのおの、このおしえにしたがえ。いかん」と。ときにある一人、もうしていわく、「某においては、千人までは