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をば衆機にわたしてすすむるぞと、みなひと、おもえるか。いまの黒谷の大勢至菩薩化現の聖人(法然)より代々血脈相承の正義におきては、しかんはあらず。海徳仏よりこのかた釈尊までの説教、出世の本意、久遠実成弥陀のたちどより、法蔵正覚の浄土教のおこるをはじめとして、衆生済度の方軌とさだめて、この浄土の機法、ととのおらざるほど、しばらく在世の権機に対して、方便の教として、五時の教をときたまえりとしるべし。たとえば月まつほどの手すさみの風情なり。
 いわゆる三経の説時をいうに、『大無量寿経』は、法の真実なるところをときあらわして、対機はみな権機なり。『観無量寿経』は、機の真実なるところをあらわせり。これすなわち実機なり。いわゆる五障の女人韋提をもって対機として、とおく末世の女人・悪人にひとしむるなり。『小阿弥陀経』は、さきの機法の真実をあらわす二経を合説して、「不可以少善根 福徳因縁 得生彼国」と等、とける。無上大利の名願を、一日七日の執持名号にむすびとどめて、ここを証誠する諸仏の実語を顕説せり。これによりて「世尊説法時将了」(法事讃)と等、釈 光明寺(善導) しまします。一代の説教、むしろをまきし肝要、いまの弥陀の名願をもって、附属流通の本意とする条、文にありてみつべし。いまの三経をもって、末世造悪の凡機にとききかせ、聖道の諸教をもっては、その序分とすること、光明寺(同)の処々の御釈に歴然たり。ここをもって諸仏出世の本意とし、衆生得脱の本源とする条、あきらかなり。いかにいわんや、諸宗出世の本懐とゆるす『法華』において、いまの浄土教は、同味の教なり。『法華』の説時、八箇年中に王宮に五逆発現