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る。しかれば、小罪も大罪も、つみの沙汰をしたたば、とどめてこそ、その詮はあれ、とどめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとくいえば、弥陀の本願に帰託する機、いかでかあらん。謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつわものにあらず。もし改悔せば、うまるべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」(法事讃)と釈せらるる、このゆえなり。」
(21)一 一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしという事。
 このこと、多念も一念も、ともに本願の文なり。いわゆる「上尽一形・下至一念」と等、釈せらる。これその文なり。しかれども、「下至一念」は、本願をたもつ往生決定の時剋なり。「上尽一形」は、往生即得のうえの仏恩報謝のつとめなり。そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念も、ともに往生のための正因たるようにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。さればいくたびも、先達よりうけたまわり、つたえしがごとくに、他力の信をば、一念に即得往生ととりさだめて、そのとき、いのちおわらざらん機は、いのちあらんほどは、念仏すべし。これすなわち、「上尽一形」の釈にかなえり。しかるに、世の人つねにおもえらく、上尽一形の多念も、宗の本意とおもいて、それにかなわざらん機の、すてがてらの一念とこころうるか。これすでに、弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆえは、如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ず