巻次
-
830頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

はずべしならくのみ。
(6)一 談議かくるとなづけて、同行、知識に鉾楯のとき、あがむるところの本尊・聖教をうばいとりたてまつる、いわれなき事。
 右、祖師 親鸞 聖人御在世のむかし、ある御直弟、御示誨のむねを領解したてまつらざるあまり、忿結して貴前をしりぞきてすなわち東関に下国のとき、ある常随の一人の御門弟、「この仁にさずけらるるところの聖教の外題に、聖人の御名をのせられたるなり。すみやかにめしかえさるべきをや」と云々 ときに祖師のおおせにいわく、「本尊・聖教は、衆生利益の方便なり。わたくしに凡夫自専すべきにあらず。いかでかたやすく世間の財宝なんどのようにせめかえしたてまつるべきや。釈親鸞という自名のりたるを、法師にくければ袈裟さえの風情に、いかなる山野にもすぐさぬ聖教をすてたてまつるべきにや。たといしかりというとも、親鸞まったくいたむところにあらず。すべからくよろこぶべきにたれり。そのゆえは、かの聖教すてたてまつるところの有情蠢蠢のたぐいにいたるまで、かれにすくわれたてまつりて苦海の沈没をまぬかるべし。ゆめゆめこの義あるべからざることなり」とおおせごとありけり。そのうえは、末学としていかでか新義を骨張せんや。よろしく停止すべし。
(7)一 本尊ならびに聖教の外題のしたに、願主の名字をさしおきて、知識と号するやからの名字をのせおく、しかるべからざる事。