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義にもあたらぬ畳字をつかうべからず。すべからくこれを停止すべし。
(14)一 なまらざる音声をもって、わざと片国のなまれるこえをまなんで念仏する、いわれなき事。
 それ五音七声は、人々生得のひびきなり。弥陀浄国の水鳥・樹林のさえずる音、みな宮・商・角・徴・羽にかたどれり。これによりて曾祖師聖人の、わが朝に応をたれましまして、真宗を弘興のはじめ、こえ仏事をなすいわれあればとて、かの浄土の依報のしらべをまなんで、迦陵頻伽のごとくなる能声をえらんで念仏を修せしめて、万人のききを悦ばしめ、随喜せしめたまいけり。それよりこのかた、わが朝に、一念多念、声明あいわかれて、いまにかたのごとく余塵をのこさる。祖師聖人の御ときは、さかりに多念声明の法燈、俱阿弥陀仏の余流充満のころにて、御坊中の禅襟達も少々これを、もてあそばれけり。祖師の御意巧としては、全く、念仏のこわいき、いかように節はかせを、定むべしという仰せなし。ただ弥陀願力の不思議、凡夫往生の他力の一途ばかりを、自行化他の御つとめとしましましき。音声の御沙汰さらにこれなし。しかれども、とき世の風儀、多念の声明をもって、ひとおおくこれをもてあそぶについて、御坊中の人々御同宿達もかの声明にこころをよするについて、いささかこれを稽古せらるる人々ありけり。そのとき、東国より上洛の道俗等、御坊中逗留のほど、耳にふれけるか。まったく聖人の仰せとして、音曲を定めて称名せよという御沙汰なし。されば、ふしはかせの御沙汰なきうえは、なまれるをまねび、なまらざるをもまなぶべき御沙汰に及ばざるものなり。しかるに、いま生得にな