巻次 - 838頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 まらざるこえをもって、生得になまれる坂東ごえをわざとまねびて、字声をゆがむる条、音曲をもって往生の得否を定められたるににたり。詮ずるところ、ただおのれがこえの生得なるに任せて、田舎のこえは力なくなまりて念仏し、王城のこえはなまらざる、おのれなりのこえをもって、念仏すべきなり。こえ仏事をなすいわれも、かたのごとくの結縁分なり。音曲更に報土往生の真因にあらず。ただ他力の一心をもって往生の時節を定めまします条、口伝といい御釈といい顕然なり。しるべし。(15)一 一向専修の名言をさきとして、仏智の不思議をもって報土往生をとぐるいわれをば、その沙汰におよばざる、いわれなき事。 それ本願の三信心と云うは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまうには、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」(大経)とらとけり。この文について、凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。このとき願力をもって往生決得すと云うは、則ち摂取不捨のときなり。もし『観経義』によらば、「安心定得」といえる御釈、これなり。また『小経』によらば、「一心不乱」ととける、これなり。しかれば、祖師聖人御相承弘通の一流の肝要、これにあり。ここをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって御門弟のしるしとす。そのほか、かならずしも外相において、一向専修行者のしるしをあらわすべきゆえなし。しかるをいま風聞の説のごとくんば、三経一論について文証をたずねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしお 紙面画像を印刷 前のページ p838 次のページ 初版p688・689へ このページの先頭に戻る