巻次 末 868頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 こたえていわく、あにさきにいわずや、この義はこれ、わが一流の所談なりとは。他流の義をもって当流の義を難ずべからず。それ経釈の文においては、自他ともに依用す。ただ料簡のまちまちなるなり。まず、来迎をとくことは、第十九の願にあり。かの願文をあきらめて、こころうべし。その願にいわく、「設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」(大経)といえり。この願のこころは、「たといわれ仏をえたらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修して、心をいたし、願をおこして、わがくににうまれんとおもわん。いのちおわるときにのぞみて、たとい大衆と囲繞して、そのひとのまえに現ぜずは、正覚をとらじ」となり。「修諸功徳」というは諸行なり。「現其人前」というは来迎なり。諸行の修因にこたえて来迎にあずかるべしということ、その義あきらかなり。されば、得生は十八の願の益、来迎は十九の願の益なり。この両願のこころをえなば、経文にも解釈にも来迎をあかせるは、みな十九の願の益なりとこころうべきなり。ただし、念仏の益に来迎あるべきようにみえたる文証、ひとすじにこれなきにはあらず。しかれども、聖教において、方便の説あり、真実の説あり、一往の義あり、再往の義あり。念仏において来迎あるべしとみえたるは、みな浅機を引せんがための一往方便の説なり。深理をあらわすときの再往真実の義にあらずとこころうべし。当流の料簡かくのごとし。善導和尚の解釈(序分義)にいわく、「道里雖遙 去時一念即到」といえり。こころは「浄土と穢土と、そのさかい、はるかなるににた 紙面画像を印刷 前のページ p868 次のページ 初版p713・714へ このページの先頭に戻る