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入路」(同)と云々 此れ皆、経釈の明文、如来の金言なり。而るに今、唯有浄土の真説に就いて、忝く彼の三国の祖師、各おの此の一宗を興行す。所以に、愚禿勧むるところ、更にわたくしなし。然るに一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり。即ち、三経に隠顕ありといえども、文と云い、義と云い、共に明らかなるをや。『大経』の三輩にも、「一向」と勧めて、流通にはこれを弥勒に附属し、『観経』の九品にも、しばらく「三心」と説きて、これまた阿難に附属す。『小経』の「一心」、ついに諸仏これを証誠す。之に依って、論主(天親)、「一心」と判じ、和尚(善導)、「一向」と釈す。然れば則ち、何れの文によりて、専修の義、立すべからざるぞや。証誠殿の本地、すなわちいまの教主なり。かるが故に、とてもかくても、衆生に結縁の心ざしふかきによりて、和光の垂迹をとどめたまう。垂迹をとどむる本意、ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば、本地の誓願を信じて偏に念仏をこととせん輩、公務にもしたがい、領主にも駆仕して、其の霊地をふみ、その社廟に詣せんこと、更に自心の発起するところにあらず。然れば垂迹におきて、内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべからず。唯、本地の誓約にまかすべし。穴賢穴賢。神威をかろしむるにあらず。努力努力冥眦をめぐらし給うべからず」と云々
 これによりて、平太郎、熊野に参詣す。道の作法、別整うる儀なし。ただ常没の凡情にしたがえて、更に不浄をも刷う事なし。行住坐臥に本願を仰ぎ、造次顚沛に師孝を憑むに、は