巻次
第二帖
943頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

のころより花洛をいでて、同じき年、七月下旬の候、すでにこの当山の風波あらき在所に草庵をしめて、この四か年のあいだ居住せしむる根元は、別の子細にあらず。この三か条のすがたをもって、かの北国中において、当流の信心未決定のひとを、おなじく一味の安心になさんがためのゆえに、今日今時まで堪忍せしむるところなり。よって、このおもむきをもってこれを信用せば、まことにこの年月の在国の本意たるべきものなり。
 一 神明ともうすは、それ、仏法において信もなき衆生の、むなしく地獄におちんことをかなしみおぼしめして、これをなにとしてもすくわんがために、かりに神とあらわれて、いささかなる縁をもって、それをたよりとして、ついに仏法にすすめいれしめんための方便に、神とはあらわれたまうなり。しかれば、いまのときの衆生において、弥陀をたのみ信心決定して、念仏をもうし極楽に往生すべき身となりなば、一切の神明は、かえりてわが本懐とおぼしめして、よろこびたまいて、念仏の行者を守護したまうべきあいだ、とりわき神をあがめねども、ただ弥陀一仏をたのむうちに、みなこもれるがゆえに、別してたのまざれども信ずるいわれのあるがゆえなり。
 一 当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いずれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せば、その益あるべし。さりながら、末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず、信ぜぬばかりなり。
 一 諸仏・菩薩ともうすことは、それ、弥陀如来の分身なれば、十方諸仏のためには、本師本仏な