巻次 第四帖 980頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 発起の信心をたくわえて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうえにはなお王法をさきとし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗他門のひとにみせざるをもって、当流聖人のおきてをまもる真宗念仏の行者といいつべし。ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもって、本とする時分たるあいだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも、当流にたつるところの他力の三信というは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」(大経)といえり。これすなわち三信とはいえども、ただ弥陀をたのむところの、行者帰命の一心なり。そのゆえはいかんというに、宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんとおもうこころの一念おこるきざみ、仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう、その時節をさして、至心・信楽・欲生の三信ともいい、またこのこころを願成就の文には「即得往生住不退転」(同)ととけり。あるいは、このくらいをすなわち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいうべし。されば弥陀に帰命すというも、信心獲得すというも、宿善にあらずということなし。しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよおしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを、聖人の御ことばには、「遇獲信心遠慶宿縁」(浄土文類聚鈔)とおおせられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもうとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたずらごとなるべし。このゆえに、宿善の有無の根機をあいはかりて、人をば勧化 紙面画像を印刷 前のページ p980 次のページ 初版p814・815へ このページの先頭に戻る